2011年3月10日木曜日

倶進 Vol.1

「わが青春の譜」其の一

S38年卒 川本雅之(梅窓会・広報部会)

私は日本学園において昭和三十二年中等部入学、昭和三十五年高等部入学、そして昭和三十八年卒業と六年間の充実した学園生活を送り、私の青春の一頁を飾りました。

昭和三十五年からの高等部の三年間は新聞部に籍を置き、当校新聞『俱進』の作成・発行に携わりました。当時『俱進』はタブロイド版四頁で、年四回発行し、学園内外のニュース、とりわけ学校行事である入学式・卒業式・体育祭・文化祭等を中心に、その他クラブ活動状況、生徒の文集等を掲載していた。

校舎全景・昭和36年頃 

『俱進』の年四回発行は学校予算だけでは資金が不足していたので、当時の明大前駅商店街に毎日出向き、お店の広告掲載をお願いし、その広告料で資金不足を補填した。また当校新聞の指定印刷所が当時の国鉄飯田橋駅近くにあり、放課後、われわれ部員は原稿の持ち込みゲラの校正等で日参し、帰りはいつも夜九時頃になり、駅前の肉屋の一ケ五円のコロッケを頬ばったり、一杯五十円のラーメンを食べ、空腹を満たしたことを思い出します。

さて当校新聞『俱進』の記事として昭和三十五年(高一)は千九百六十年日米安全保障条約締結の年で、いわゆる六十年安保闘争があり、国会議事堂前学生デモで東大生樺美智子さんが死亡すると云う衝撃的な事件があった。一部高校生もデモに参加したとの記事もあり、『俱進』でもこの安保闘争を記事として取扱うか否かで議論はあったが、高校生としての記事としては重すぎるとのことで掲載せず、一般的な記事を掲載した。

新聞部室(現在の木造棟二階)棚側の左から五番目が私、二番目が和田事務長!

昭和三十六年(高二)は自分が新聞部部長の任を承り、重責を感じた年である。この年、前校長 蜷川先生が急逝され、われわれ新聞部は新しく校長に就任された東証一部上場、同和鉱業株式会社 代表取締役社長に就かれていた本校先輩、久留島秀三郎先生のもとに、東京駅八重洲口、自社ビルを訪問し、社長室へ通され、緊張した面持でインタビューしたことがあります。 

昭和三十七年(高三)は新聞部の主体が二年生に移行したが、この年は日本学園創立七十周年にあたり、『俱進』では記念特集号を組み、われわれ三年生も編集に加わり、学校の資料集めに奔走し、編集に苦慮したが、先生方、先輩方の協力により十二頁にわたる特集号を発行することが出来た。

新聞部の仲間たち。右から二番目が私、一番右が和田事務長。 

日本学園を卒業して来年で五十年になるが、かくの如き学園での日々の出来事を今でも鮮明に思い出します。

昭和37年『俱進』記念特集号


*梅窓会ブログの新連載企画「俱進」がスタートいたしました!

「俱進」は日本学園OBの在学中の思い出、学園にまつわるエピソード、現在の活躍・近況、進学先でのキャンパスライフやサークル&部活動のニュース、旅行・レクレーション報告などをノージャンルで発信するOBによるOBのためのブログ新聞です。「俱進」のタイトルには、その記念すべきVol.1を寄稿していただいた日本学園新聞部OB・川本雅之氏「わが青春の譜」で紹介された学園新聞『俱進』へのオマージュを込めました。梅窓会正会員であれば、どなたの寄稿でも広報部会にて内容確認の上で掲載いたします。みなさまの原稿をお待ちしています!

* 本文1,500文字以内(タイトル必須)・できるだけ写真を同封してください。
     【宛先】 〒156-0043
     東京都世田谷区松原2-7-34 日本学園気付 梅窓会 広報部会

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梅窓会 広報部会

1 件のコメント:

和田英昭 さんのコメント...

新聞部の記録写真、懐かしく拝見しました。
腹ぺこでもみんなで編集会議を行い、記事の収集と広告費をもらいに商店街を回った記憶がよみがえりました。当然のことながらみんな若かったなぁ。S37年卒