2012年1月15日日曜日

日本学園のルーツを訪ねて、「神田錦町二丁目二番地」

日本学園の前身は旧制の日本中学校であり、さらにその前身は今から遡ること126年前、明治18年(1885年)7月に東京神田錦町に設立された「東京英語学校」であることは、皆さんよくご存知のことと思います。その東京神田錦町とは今もある地名なのか、さらにいったいどこにあるのかOBの諸兄/学校関係者なら興味の尽きないところではないでしょうか。「日本学園100年史」などの資料で調べてみますと「東京英語学校」のあった正確な番地は「東京府神田区錦町二丁目二番地」とあります。平成のこの時代に126年前の番地が残っているだろうか、いささか心配な気がしましたが、調べてみました。

ありました。確かにありました。古本の街で有名な神田神保町の隣町が「神田錦町」でした。電柱の住所表示板もズバリの「神田錦町2-2」。そして驚くなかれ千代田区が建てた神田錦町二丁目の記念碑が、現在の神田警察署前にありました。それによりますと、神田錦町二丁目の町名が正式に誕生したのは、明治5年(1872年)のことで、明治44年(1911年)に町名から神田が外され錦町二丁目に変更されましたが、昭和22年(1947年)に再び神田錦町二丁目となり、現在に至っているということがわかりました。

江戸時代は武家地だったこの神田錦町界隈は、明治3年に校祖、杉浦重剛も学んだ旧藩士の貢進生が入学した大学南校(のちの開成学校)が神田錦町三丁目に新築移転し、学問の街として発展していったということです。

そしてその流れでしょうか神田錦町二丁目二番地は明治初頭に三菱財閥の岩崎家で建てた英語塾の明治義塾があり、この跡地に「東京英語学校」と英吉利法律学校(現在の中央大学)とが出来、建物の正面左側が「東京英語学校」で使用し、正面右側が英吉利法律学校で使用したとあります。その後「東京英語学校」、中央大学ともに移転し、昭和の初めに東京電機大学が神田小川町から移ってきたということになります。 

さてこの神田錦町二丁目二番地ですが、敷地はかなり広く、現在は北側に位置する東京電機大学・神田キャンパスと南側に位置する神田警察署の建物になっております。「東京英語学校」のあった場所は、この東京電機大学本館の場所に向かって左側あたりにあっただろうと容易に推測できます。そして少し離れた神田警察署の斜め前には現在も明治13年創立の錦城学園高校、明治29年に創立された正則学園高校が肩を並べて建っております。

この東京電機大学本館前に立ってみますと日本の政官界、経済界、芸術と文化の分野で優れた業績を残した偉大な日本学園の先輩達が忙しくこの道を闊歩していたかと思うと感慨深いものを感ぜずにはいられません。さらに日本学園でも東京電機大学へ進学した卒業生が多々おりますが、日本学園のルーツである「東京英語学校」のズバリ跡地で勉学に励めるとは、非常に羨ましく感じた次第です。日本学園OB諸兄/学校関係者で神田神保町界隈に仕事などで行く折などがありましたら、ぜひ日本学園のルーツを訪ねて、ちょっと寄り道をして「神田錦町二丁目二番地」に行ってみていただきたいものです。明治25年(1892年)、神田の大火で校舎は消失、同年8月に半蔵門外に「日本尋常中学校」と改称され移転するまでわずか7年間の校舎でありましたが「ここだったのか!出発点は・・・」と、心も身も思わず引き締まり、神聖な気持ちなってくるのは間違いありません。


日本学園の前身「東京英語学校の校舎」。住所は神田錦町二丁目二番地。

電柱の住居表示は神田錦町2-2(東京電機大学本館前)


千代田区が建てた神田錦町二丁目の記念碑


記念碑にある現在の地図(上)と安政3年の地図(下)。 
「東京英語学校」は蒔田清之助側で、英吉利法律学校は蜷川相良守側に
位置したと思われる。


東京電機大学本館。車の後ろに立派な門構えが見えます。
門の左側が「東京英語学校」で、門の右側が英吉利法律学校
のあった場所と思われます。


広報部会 S44卒  中村 隆

4 件のコメント:

広報部会 永澤 さんのコメント...

東京英語学校が神田にあった事は知っていましたが、まさか東京電機大学本館の場所であったとは・・・知らずに進学した卒業生も多いのではないでしょうか。このような情報は灯台もと暗しで「神田錦町に設立」という沿革の文句だけで納得している方が多いと思います。しかし実際に調べてみると住所標記の記念碑あり、当時の校舎を彷彿とさせる電機大学の本館や移転せずに今も学び舎を伝える錦城・正則ありなど、往時の空気を楽しむことができるのですね。OBのちいさな、そして紀行文としても優れた旅だと思います。調査・取材おつかれさまでした。次回は半蔵門編を期待しております。

44年卒 広報部会 中村 さんのコメント...

永澤さん、コメントありがとうございます。
訪ねてみるもんですね。まずは電柱の住所表示板に驚き、記念碑にビックリでした。この地区の方々が歴史をとても大切にしていることがよくわかります。しかし跡地はとても狭いでした。三度の移転をおこない現在の世田谷松原の広い校庭と威厳のある校舎を杉浦杉浦重剛先生がご覧になれば、それはそれは感動したに違いありません。半蔵門校舎に関しては、再度現地取材したいと思っておりますが、とりあえずは2011年7月18日月曜日の投稿をまずはご覧下さい。

匿名 さんのコメント...

この場所が母校の出発点ですか・・
住所の表記がほとんど変わっていないというのも素敵なことですね。この地に急に愛着が湧いてきます。
中央大学とも縁が深いのですね。日学OB

広報部会 44年卒 中村 隆 さんのコメント...

コメントありがとうございました。
良く残っていた住所ですね。すぐ先の南は皇居の内堀があり、この辺は昔から東京の中心の土地だったのですね。道路なども幕末の安政の時代とそうはかわりません。今も学生の街らしく周辺はラーメン屋などの飲食のお店が非常に多いのに気がつきます。中央大学との関係は当時は同じ敷地で同じ建物の兄弟校で校長も同じでしたので、関係深いものがあります。