2010年12月29日水曜日

坂の上の雲と明治時代の母校先人に思いを馳せて(その2)

日露開戦から旅順港閉塞作戦へ!
壮絶な戦死を遂げた広瀬中佐、これから日露の戦いや如何に!
という佳境を迎え、次回に期待を抱かせつつ今年の放送分は終わりました。
そして第2部となる今回も母校と深い関わりのある偉人がいらっしゃいました。

12.5放映の「日英同盟」にて登場した外務大臣の小村寿太郎氏(配役-竹中直人)。
日本近代外交史に燦然と名を残すこのお方、実は杉浦先生を陰に陽に助け、
母校発展に尽力された人でもあります。(日本学園功労者~百の年輪より)


小村寿太郎侯(画-真野紀太郎校友)

寿太郎氏は、1855年(安政2年)に九州飫肥藩(宮崎県日南市)に生まれ、
藩の貢進生に選抜され、1870(明治3年)東大の前身大学南校に入学。
そして時を同じくして膳所藩(滋賀県大津市)より選ばれ、入学したのが
杉浦先生でありました。

明治初期、全国の俊秀が集まったこの学校で学業を極め友情を結びます。
そしてともに文部省官費留学生に選ばれ、寿太郎氏(第1回留学生)は
米国で法律を、杉浦先生(第2回留学生)は英国で化学を学びました。
寿太郎氏は帰国後司法省に入省、その後外務省に転出。頭角を現します。 
1896年(明治29年)外務次官、その後各国公使歴任。
1901年(明治34年)外務大臣に就任、翌年には日英同盟の締結に尽力しました。
ドラマでは、口髭姿の小柄な竹中直人が日英同盟、
日露交渉の息詰まる展開に凄みのある演技で魅了しています。


小村寿太郎(竹中直人)

<友情のエピソード>
寿太郎氏は親の借財により生涯に渡って生活に苦労したとあります。
普段の着物もままならなかったというほどで、
いつも同じフロックコートを着ていたとか。そんな彼を放っておけず、
大学南校の仲間が肩代わりして懸命に返済に努めます。
「君をこんなことで困らせては国家の大損となる。国事に専念してもらいたい」と。
仲間の先頭に立ったのは杉浦先生たちでありました。
寿太郎氏は熱き友情に応えて、外務大臣として難局を乗り越えていきます。
そして、日露戦争では、ポーツマス会議全権代表として絶対決裂できない
講和会議に臨み、条約調印に成功。国難を救いました。
ところがこの条約内容に不満な群衆が政府を糾弾、
有名な日比谷焼き打ち事件が起こります。
この時母校百年史によると、杉浦先生は小村邸の留守をまもる長男、
欣一氏(当時東大生)を見舞い、叱咤激励したとあります。
ここでまた日学OBが登場。小村欣一氏です。

彼は、父寿太郎氏の勧めで、日本中学に入学しました。
そして母校を成績首位で卒業、一高に進み、東大法学部でも
1907(明治40年)首席で卒業、成績優秀者への銀時計を賜っています。
もう完璧であります。
そして父と同じく外交官の道を選び、山本権兵衛(配役-石坂浩二-海軍大臣時)の
内閣時代は情報部長、その後1928年(昭和3年)拓務省の初代次官になりました。
また多角的な外交官としても有名で演劇に通じ、文芸、美術界にも知己を持ち
関東大震災で実現なりませんでしたが、国立劇場の設置も推進していました。
しかし48歳の若さで急逝。
将来を嘱望されていただけに惜しまれてのことでした。

もう一度父寿太郎氏に話を戻します。
この後にも歴史に残る大仕事を成し遂げています。
1908年(明治41年)外務大臣に再任され、幕末以来の欧米列国との不平等条約の
改正交渉をおこない、ついに1911年(明治44年)日米通商航海条約の調印に成功。
その後英独仏とも調印。日本は関税自主権の回復を果たし、諸外国との関係を
対等にすることが出来たのであります。
当初恥ずかしながら私、歴史上の人物、配役は竹中直人か・・
程度の認識しかありませんでした。しかし調べていくうちに
この方の姿勢に感銘を受けることとなりました。それは・・
もっとも大切なことを見極め、「誠」を尽くし邁進する。
極貧生活でありながら(それだけでも凹みますが)、
その後国家間との最も重要な交渉を成功に導くという類い稀なるタフネスぶり。
この方が母校功労者であったとは・・言葉になりません。

現在故郷の宮崎日南市には郷土の偉人として
記念館があり、生家も残されています。
そして飫肥の中心地には生誕地碑があり、碑面に東郷平八郎元帥の題字、
裏面には杉浦先生の友情の言葉が刻まれています。

追記 2022.5.16

 

生誕地碑に刻まれた杉浦先生の友情の詩はこのように刻まれています。

 

茅盧を出でしより幾変遷(ほうろうをいでしよりいくへんせん)

南船北馬十余年(なんせんほくばじゅうよねん)

神州の諸葛身便ち胆(しんしゅうのしょかつみはすなわちたん)

握るを要す堂々宇内の権(にぎるをやうすどうどううだいのけん)

 

〈意訳〉

家を出てから、幾つかの変遷を経て、東奔西走すること十年あまり

日本の諸葛孔明(小村寿太郎)は豪胆さを身につけ、

堂々と天下に権をふるった

 

1905(明治38)、日露講和条約締結、ポーツマス会議から帰国して間もなく、清国へと向かった小村全権大使。この時、病床にあった杉浦先生はこの詩を賦し、はなむけとされました。

 

杉浦先生は掛け軸にも書され、現在も日本学園資料室に大切に保管されています。






広報部会 

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

毎回よく調べられていますね。校祖杉浦先生が小村寿太郎の親友であったとは驚きです。記念碑に言葉が刻まれているということは、本当に密接な人間関係があったいう証ですね。これからも歴史に埋もれている母校卒業生の人生と歴史とのつながりを紹介していってください。楽しみにしています。

S56卒安齋 さんのコメント...

コメントありがとうございます!
調べてみると、杉浦先生との絆を示す様々な事柄が見つかり正直ビックリしています。ほかにも明治大正昭和と、史上の重要人物が多々いらっしました。学園沿革に沿ってこれからも少しづつご紹介できればと思います。

和田英昭 さんのコメント...

校祖杉浦重剛の私塾「称好塾」の塾頭をしていた茶原義夫氏とその門下生であった小生と同じく門下生であった故望月幹夫氏(S42年卒)とで昔の資料室で小村寿太郎のハットとか若干の小物を見たことをうろ覚えですが見たと思います。
残念ながら今の資料室には無いようです。
学校と塾とすみ分けたときに処理されたものと思います。私塾「称好塾」は十数年前に解散しており小村寿太郎関係のグッズ等詳細は
わからないままです。(S37卒和田英昭)

S56卒安齋 さんのコメント...

事務長さまいつもありがとうございます。
小村寿太郎のハット・・すごいお宝ですね。本当に残念です。
称好塾も十数年前まで存在していたとは知りませんでした。
事務長も門下生でいらしたのですね!


生誕地碑の先生の詩文内容ですが、今度宮崎日南市のほうに聞いてみようと思っています。