<駐米大使・斎藤博の遺骨が日本に帰り着いた日>
<よくぞ送ってくださった・唄 瀬川伸>
USS ASTORIA CA34 ~The Saito Cruise 1939~
USS ASTORIA CA34 ~The Saito Cruise 1939~
アメリカから日本まで、遺骨を護送する模様が写真掲載されています。<アメリカ・アストリア号の功績を伝えるサイトより>
斎藤 博
明治19年に生まれ、同36年、旧制日本中學主席卒業。その後、東京帝国大学法科卒業し、領事官試験にトップ成績で外務省入省。省内でも卓越した語学才能を持ち、将来を嘱望された。大正時代には日本中學の先輩となる吉田茂とコンビを組み、パリ講和会議、ワシントン会議、ロンドン海軍軍縮会議の全権団に加わり、豊かな国際経験を積む。昭和9年、険悪化した米国との関係を立て直すため、駐米特命全権大使に抜擢され、米政府や財界との折衝、日本文化を紹介する書物や映画を制作するなど寸暇を惜しまず尽力。昭和12年、日本軍機が米国艦船を撃沈したパネイ号事件では、本国の訓令を待たず、自らの責任において全米放送枠を買い取り、堪能な英語と真摯な言葉で謝罪し平和を訴え、米国民の怒りを鎮めた。昭和13年、近衛文麿首相より外務大臣就任の要請を受けるも激務による体調悪化により辞退。翌年2月療養先のワシントンのホテルで肺結核により他界。ルーズベルト大統領と米国政府は彼の死を哀惜し、最新鋭の巡洋艦アストリア号にて遺骨を護送させて最高の敬意を表した。棺は大統領から贈られた花と日章旗、星条旗によって包まれていた。母校日本中學からは猪狩校長と教員および第5学年代表が横浜港に到着したアストリア号を出迎え、翌日営まれた外務省葬には全生徒が参列した。日米開戦のわずか2年半前のことであった。
鎮魂歌 Ambassador Saito's Return(昭和14年)
ネイビーブルーに恋をして「重巡洋艦アストリアの運んだもの」
<2011.12.25投稿記事>
日本学園資料室委員会
梅窓会 広報部会
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