梅窓会と私
S41年卒 清水 正敏
梅窓会に参加するようになったのは1989年(平成元年)。早くも22年が過ぎた。日本はバブル時代、中国はあの「天安門事件」があった年だ。中国の青島(チンタオ)出向勤務2年を終えて帰国した年のことで、よく覚えている。梅窓会活動22年を上回る先輩方は何人もいらっしゃらないと思う。この22年の歳月は瞬く間で、知らない間に還暦を迎えていた。
月一回の梅窓会運営委員会、毎年の総会、卒業式や学園祭等、ずっと足を運んでいる。5年前からは日本学園の理事を仰せつかった。この22年間は40代から50代だったから仕事も多忙を極め、梅窓会活動にまっしぐらという訳にはいかなかった。無理をしない範囲で参加していたから続けられたのだと思っている。
よく「なぜ梅窓会活動を長期間続けているのか」と聞かれるが、私にとって同窓会活動は、何もこの梅窓会ばかりではない。5年前からは渋谷小学校、4年前からは渋谷区立松涛中学校、14年前からは中央大学の同期会幹事を、38年前からは中央大学法学部ゼミの幹事を務めている。要するに還暦を過ぎて気が付いたら、小中高大の同期会の幹事になっていた、ということだ。自分から手を上げてやろうと思ったわけではなく、成り行きでそうなった。梅窓会の場合は、昭和41年卒の同期会のバックアップがあったから、梅窓会活動がやり易いこともあった。また、私の性格は人と話をするのが好き(=人間が好き)で、これが同期会幹事をさせているのかもしれない。
この性格はどこから来たのだろうか。私は母方の祖父や母のDNAが大きく影響していると考えている。祖父は長年、町会長を務め、祖父の周りに人がよく集まって来たのを思い出す。また、母は48歳から75歳まで27年間、地元で民生委員を務め、地元に貢献した。このDNAなのである。この他に昭和30年に今の渋谷の家に引っ越して来てから、ずっとここに住んでいることも小中高大の同期会幹事として適任なのかもしれない。さらに今振り返ると、毎年の年賀状は同期仲間との絆作りに有効であった。毎年届く日本学園関係者からの年賀状は約70枚、この内30枚は同期仲間からの年賀状であり、これが卒業してから40年以上も続いているのである。
しかも年賀葉書は1枚50円、安いものだ。年賀状のやりとりをしていると仲間意識が続いて、同期会をやる時に声をかけやすい。我々の時代はケータイの時代ではなかったので、この年賀状のやりとりの費用対効果は抜群だ。年賀状は印刷してもらうが、日本学園に関すること、例えば全校生徒は○○○○名になったとか、恩師のこと等を手書きで書いて出すことにしている。これを受け取った同期仲間は「清水は日本学園でいろいろな活動をしているな」と感じているはずだ。この3、4年の年賀状には「愛校救園、振興日学」を書いている。日本学園が甦ってもらいたいという自分への強い意志表示である。
今后の事であるが、今まで通り梅窓会、理事会や同期会を通じて日本学園に係わっていくつもりだ。小中高大の同期会幹事の活動は自分の体内リズムとなって、今は体力気力ともOK、渋谷の自宅から日本学園まで30分で行き易く、もうしばらくすれば仕事も一段落する。あと20年はこのままで、と思っている。
当面の“野望”は2つある。ひとつは人材発掘である。当校は伝統校なので人材は各分野に存在する。見つけ出し、学校と梅窓会に協力してもらうことだ。この2、3年で何人かを梅窓会に取り込み、梅窓会の活性化につながった。これをやらないと梅窓会が先細りとなることは必至だ。もうひとつは、平成28年3月の高校卒業式に昭和41年卒の我が同期100名を参加させること。平成28年は我が同期卒業50周年となり、学校から卒業式へ招待されるのである。今年から同期仲間への呼びかけを強化し、何回か同期会を開いて盛り上げていきたい。毎年3月、卒業式に招待される期の中で、今までで最多・最大・最強を狙い、今世紀中は破られない記録にしたい。
S41年卒の同期と総会・懇親会にて。右から二番目が私です!
*みなさまの思い出・近況等を「俱進」にお寄せ下さい!
「倶進」は日本学園在学中の思い出、学園にまつわるエピソード、現在の活躍・近況、進学先でのキャンパスライフやサークル&部活動のニュース、旅行・レクレーション報告などをノージャンルで発信するOBのブログ新聞です!梅窓会正会員であれば、どなたの寄稿でも広報部会にて内容確認の上で掲載いたします。みなさまの原稿をお待ちしています!
* 本文1,500文字以内(タイトル必須)・できるだけ写真を同封してください。
【宛先】 〒156-0043
東京都世田谷区松原2-7-34 日本学園気付 梅窓会 広報部会
* メールでも寄稿OK。詳しくは梅窓会ブログ・トップページ
「原稿投稿の仕方」をご参照ください。
梅窓会 広報部会