2011年7月18日月曜日

母校歴史探訪 半蔵門外にあった日本中学校は、正確にはどこにあったのだろうか

●古地図が静かなブームだそうです。日本学園の前身である「東京英語学校」は神田の大火の類焼により、明治25年四谷の半蔵門外の麹町山元町に校舎を再建し「日本中学校」と改称して再出発したことはOBの皆さんの良く知るところであります。さてその半蔵門外の麹町山元町とは、いったい半蔵門のどこあたりにあったのでしょうか。興味あるところです。そして「日本中学校」の正確な場所はどこにあったのでしょうか。

●そこで古地図の出番と相成ります。いろいろあちこちと調べて見ますと麹町山元町という地名はなく山本町が正しい地名であることがわかりました。その山本町一丁目3番地になんと「日本中学校」がありました。下の地図をご覧ください。これは明治40年の地図でして、はっきりと「日本中学校」の文字が出ております。

●驚くなかれ、ここは現在では皆さんよくご存知のエフエム東京(TOKYO FMがステーションネーム。略称はTFM)というFM放送局があるビルのある場所になります。なお当時は北側は電燈会社、麹町区役所、警察署、英国公使館などがあり、南側は広大な土地に東京衛戌病院、陸軍省、近衛師団、参謀本部、海軍省、内閣総理大臣官舎などが続いております。学校関係では華族女学校、第一中学、日比谷中学校、海城学校などもありました。皇居を囲み日本の中枢が集まっていた地域なのです。なおこの地図は明治40年に東京郵便局、東京逓信管理局によって編纂された「東京市十五区番地界入地図」に基づいて作成された地図で、一般的に「郵便地図」「逓信地図」と呼ばれておるもののようです。(ブログにこの地図を載せることに関しては、著作権元のgoo広報より許可をいただいております。)

●さらに千代田区観光協会公式サイトのホームページにも半蔵門にあった「日本中学校」のことが地図と一緒に出ておりますので、こちらもぜひご覧ください。入り方は「千代田区観光協会」http://www.kanko-chiyoda.jp/ の右側の下にあるリンク先「半蔵門通信・麹町の歴史」をクリックし「バックナンバー35回・・・・麹町1丁目その3」をクリックすると見られます。

●なお戦後まもない昭和22年の同じ場所を航空写真で見てみると、近辺はB29の空襲でやられており新宿の淀橋、世田谷の松原へと移転せずにそこに留まっておれば「日本中学校」はどうなっていたであろうか。時代の流れに沿って移転していったことによって今の日本学園があると思うと感慨深いものを感ぜずにはいられません。 

 
明治40年当時の半蔵門界隈の地図。日本中学校があります。
クレジット:「goo地図」

現在のエフエム東京のビル。TFMとあるビルです。
ここに半蔵門時代の日本中学校がありました。
(三宅坂方向から半蔵門方向に向けて、内堀通りからのショット) 

広報部会 S44卒 中村

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

よく調べてくれてありがとうございました。FM東京の場所にあったとは驚きです。今度半蔵門を通ったら、良く見てみます。

匿名 さんのコメント...

驚きました。サラリーマン時代によく打ち合わせに出かけた局ですので、そこに母校があったとは驚きです。しかもこの場所は徳川の忍者、服部半蔵に因む半蔵門が目の前なので、まさに真の半蔵門前ですね。この土地に学校があったというだけでも日本の中枢に位置した伝統校ということが分かります。かつての立地だけでも日本の教育界における母校の存在意義を再認識いたしました。ありがとうございました。

広報部会 中村 さんのコメント...

そうなんです。FM局があるところです。私もビックリしました。半蔵門のほぼ正面に「日本中学校」があったということになります。資料を調べますと「天皇や各皇族の皇居への日常の出入りには主にこの半蔵門が使われている。」とあります。また「江戸時代は将軍家有事の時には、この門より甲州街道を経て甲斐の国に脱出する手筈になっていた。」いうことです。確かにいつ通ってみても警察の大型バスやパトカーなどが警備のために留まっております。この「半蔵門」という国としても重要ポイントと考えている門のまん前に「日本中学校」があったわけですからすごいことです。当時としてはある意味では特別な地域に「日本中学校」が建っていたわけで、他からも羨ましがられたと推測できます。教師も生徒も誇りをもって通っていたのではないでしょうか。