昭和18年1月17日生まれ。狛江市に育つ。中央大学 経済学部卒。
エレクター株式会社・専務取締役を経て2013年相談役に就任。
■大学卒業後はどのようなキャリアを積まれてきたのですか?
大学卒業後、広告代理店に入社しました。ところが憧れていた広告業界の華やかさは見た目だけで、現実は明けても暮れてもクライアントの接待ばかり・・・テレビ局や新聞社などのメディアにもペコペコしなきゃならない。若かったこともあり“こんなことばかりやってられるか!”という気持ちになって、心機一転、粘着シートやテープ、フィルム等を製造する日東電工㈱に転職しました。当時の日東電工は一部上場したばかりで勢いがあり、日本で最も早い時機に週休二日制を導入するなど、社員を大切にする働きやすい会社でした。
■日東電工時代は、一般家庭向け消費財を手掛けられたそうですね。
はい、その背景から話しますと、もともと日東電工は、電気絶縁材料、粘着テ-プ、高分子材料等の工業材料と録音テープ、乾電池という一般家庭向け消費財を製造していたのですが、後述するプロジェクト結成の10年ほど前に、この録音テ-プや乾電池の事業部が日立と合併して別会社(日立マクセル株式会社)になってしまいました。一方、海外の競合メーカーである3M(スリーエム・カンパニー)は、カセットテープの代名詞になっていたスコッチテープや金属たわし/スポンジ製品などの世界的な消費財ブランドである「スコッチ・ブライト」を立ち上げ、工業材料以外の分野でシェアを伸ばしていた。「日東電工も3Mのようになるべきだ」ということで、家庭用消費財を扱うブランドを再度立ち上げることになったのです。日東電工は地味で堅いイメージの会社ですから、立ち上げプロジェクトの担当者には“主婦ウケするソフトさと個性を備えた社員を”ということで僕に白羽の矢が当たったのです(笑)。僕は日本学園時代から自分らしさを大切にしていたので、お堅い日東電工でもストライプ模様のシャツやサイドベンツ(当時Yシャツは白無地、ボタンダウンは駄目、スーツはノーベントが当然だった)が入ったスーツを平気で着ていました。髪も今と同じように長く、やたらと目立つ社員だった。それで「あいつはトッポイからやらせてみよう」ということになったわけです(笑)。
■それがメジャーブランド「ニトムズ」の始まりだったのですか!
昭和47年(1972年)に「日東ホームプロダクツ」というプロジェクトチームを編成しました。それを略した「ニトムズ(
NITTO H
OME
PRODUCT
S)チーム」が、後に「㈱ニトムズ」の社名となりました。“日東電工の粘着テープで培った技術をベースに家庭用ヒット商品を開発する」、それがプロジェクトチームのミッションでした。僕は「本気でブランディングするなら組織も日東電工と切り離し、スタッフも親会社の価値観に縛られていない新しい人材を入れなければダメだ」と考えていたので、銀座に事務所を借りて、そこにプロジェクトチームを移しました。女性スタッフまで新たに採用し、大手広告代理店からブランド・コミュニケーションのエキスパートに出向してもらって、ゼロからスタートしたのです。最初の1~2年は失敗の連続でしたが、3年目から手ごたえを感じ、昭和50年に株式会社ニトムズを設立。「フリーラック」、「バスタワー」等のヒット商品開発の後、僕が営業企画本部長だった昭和58年(1983年)に、粘着式カーペットお掃除ツール「コロコロⓇ」が大ヒットしたのです。
■全国の主婦にお馴染みの、あの「コロコロⓇ」シリーズですね!
そうです、僕は企画・宣伝・販売促進など、「コロコロⓇ」に関するマーケティング戦略全般を担当しました。商品力に自信はあったのですが、予算がない上に失敗は絶対に許されない、という状況でしたから、大規模なPRを実施することは不可能でした。そこでテレビCMの媒体料金が安価なローカルエリアでテストマーケティングを繰り返し、消費者の反応を確かめながら評判を全国へ広げていく作戦を実行したのです。最初にテレビCMをオンエアしたのは北海道でした。「寒い地域だからカーペットもたくさん使っているはずだ」ということで・・・それが功を奏して、まず北海道でヒット商品となり、次は広島でヒット、次は仙台でヒット・・・といった具合です。最終段階では、消費者の食いつきが悪い地域とし有名な名古屋でテレビCMをオンエアしたところ売れに売れた。それで満を持して関東・関西エリアで一挙にCMを流したのです。売上は8億円ぐらいまで伸びましてね、ニトムズでテレビ番組のスポンサードもしたい、CMもシリーズ化すれば、もっと売上も伸びるはずだと確信しました。日東電工の社長にマーケティング予算の増額を頼んだのもこの頃です。
爆発的ヒット商品となり、今も人気商品の「コロコロⓇ」。
写真は「コロコロスタンダードS」。
■どんな番組をスポンサードされたのですか?
中山美穂さんのデビュー作となったドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系列1985年O.A.)です。タイトル通りの刺激的なストーリーで人気番組になりました。僕は「コロコロⓇ」の認知を盤石にして、さらに売上を伸ばすためには、挑戦的な企画で高い視聴率を見込める番組をスポンサードしなければ意味がないと考えていました。そのポテンシャルを秘めたドラマが「毎度おさわがせします」だったのです。刺激的なドラマのスポンサーとなることは、お堅いイメージを持つ親会社にとっても大きな賭けとなります。それだけにトップへのプレゼンテーションは、僕にとって一世一代の勝負。あえてカジュアルなジーンズ姿でプレゼンテーションに臨みました。その結果、「毎度おさわがせします」のスポンサードが決定し、急上昇する中山美穂さんの人気と比例するように、「コロコロⓇ」の販売実績も着実に伸びていきました。
世界中で愛されているワイヤーシェルフ「エレクター」。
写真は「スーパーエレクターシェルフ」。棚板はすべて抗菌クリアコーティング仕様。
業界のパイオニアならではの堅牢性と信頼性、ワイドなバリエーションが魅力だ。
■現在のエレクター㈱へ転身された経緯は?
プロジェクト立ち上げから短期間でニトムズ㈱は急成長しました。新製品も次々に投入され、暮らしに欠かせない日用品ブランドとしての安定したポジションを確立しました。平成に入って急成長して来た(株)ニトムズの成長が踊り場に差し掛かった頃、次期成長戦略を巡り、トップの考えとどうしても折り合いがつけられないことから、私が身を引くことを決意し退社しました。充電期間も半年になり、少々退屈しだした頃、旧知のエレクタ-社の社長からお誘いを受けたのです。ご存じのように「エレクター」は世界各国で愛されているワイヤーシェルフです。弊社は和食レストランを経営する会社として1957年に創業しました。その後、1966年に米国のインターメトロ社と技術提携し、日本で独自にエレクター・ブランドの製品を製造・販売する会社になったのです。米国生まれの製品を扱っているので、一見、外資系企業のように見えますが、実は生粋の日本企業なんですよ(笑)。エレクターのワイヤーシェルフは、優れたデザイン性、機能性、耐久性、クリーン性で、フードサービス、ホテルのレストラン、病院、工場など、様々な業界のプロに支持されてきました。エレクター㈱の次の狙いは、家庭向けのワイヤーシェルフ「ホームエレクター」を開発・販売して市場拡大を図ることでした。ニトムズ㈱で培った家庭用品のブランドマネジメントのノウハウを活かし、「ホームエレクター」の市場開拓をリードする、それが僕の新しい仕事になりました。平成3年にマーケティング部長として入社しましてね、プライベートユースに見合ったプライス設定や機能面の改善・改良なども手掛けました。その甲斐あって「ホームエレクター」はクリエイターのSOHOから一般家庭のキッチンに至るまで、幅広い市場を獲得することができました。
松本さんが手がけた「ホームエレクター」シリーズ。
写真は木目ブランチシェルフ(棚板)を備えたリビング向けの製品。
■松本さんは同窓会・同期会の意義をどのようにお考えですか?
同窓会・同期会は若い頃から継続することが大切だと思います。しかし、現実は転勤や転居など、様々な事情で音信不通になる友人もあり、仕事も家庭も忙しく、同窓会や同期会どころじゃなくなる・・・結果的に一部の仲の良い友人同士の限られた付き合いになってしまうんですね。私自身もそうでした。一人ひとりのOBが若い頃から、先輩や友人とつながる努力を続けていれば、仕事でもプライベートでも、もっと助け合えるはずだし、母校で結ばれた人材のネットワークがビジネスチャンスを生み出す可能性もあります。もちろん、つながるためには、それを後押しするパワーが必要です。そのパワーこそ“日本学園に学んだプライド”に他なりません。榎本理事長、谷川前校長を始めとする学校関係者の皆様並びに梅窓会の皆様のご努力により、現在、母校で学ぶ生徒たちは“名門・日本学園の生徒であるプライド”を着実に取り戻しつつあると思います。たとえば、吹奏楽部諸君の演奏ひとつを取っても、僕らの時代より、はるかにハイレベル。良き伝統を継承しながら、現代の名門校に相応しい教育環境を着々と整備されおり、生徒も期待に応えています。その意味でも、これからはOBネットワークを再構築する絶好の時期。文武両道でがんばる後輩たちのためにも、OB一丸となって交流の輪を広げていきましょう。
平成25年度・梅窓会・懇親会(6/23)で同窓の仲間と共に。
梅窓会 広報部会