菱田春草(1874~1911)は横山大観(1868~1958)と共に日本学園の前身「東京英語学校」の出身で、新時代にふさわしい絵画の創造に生涯を賭け、近代日本画壇に不滅の足跡を残した偉大な日本画家です。春草は「東京英語学校」で学んだ後、東京美術学校(現東京藝術大学)に大観の1年後輩で入学、岡倉天心、橋本雅邦らに学んでいます。
当時、日本は西洋化と近代化を推進した時代で、画壇でも日本画に西洋の技法を取り入れて、近代化を試みようとする人達が現れました。その先駆者であり代表者となったのが春草であり大観でした。春草は2期生、大観は1期生として東京美術学校に入学後、2代校長の岡倉天心から「西洋画に見られるような空気を描く方法はないだろうか」と言われ、共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法、「当時批判を込めて朦朧(もうろう)体と言われていた」という独自の表現技法の絵画を次々に発表していきました。二人は新しい日本画はこれ以外の描法はないとの強い信念で創作活動に打ち込んでいきます。
しかし世間からはその実験的で先進的な画風に猛烈な批判を浴びました。保守的風潮の強い日本の画壇でも活動が行き詰まりを見せはじめたため、春草と大観は共にボストン美術館中国・日本美術部長に就任していた恩師岡倉天心を頼って渡米し、米国と欧州各地で次々と展覧会を開き、高い評価を受けることになります。二人は「東京英語学校」で学んだ英語がそのときの海外生活で大いに役に立つことになります。この欧米での高評価を受けて日本国内でもやっと革新的な画風が評価され始め、その後大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築いていき第1回文化勲章を受章することになります。
「東京英語学校」、東京美術学校と2つ同じ校門をくぐり共に刺激しあって青年時代を過ごした二人は無二の親友、生涯の友、盟友であり、お互いを敬愛しつつ、日本画の発展に向けて全生涯を傾けていった二人です。しかし春草は志半ば惜しくも満37歳の誕生日を目前にして夭折してしまいます。そのとき大観は大いに悲しみ嘆いたと言いわれています。6歳年下でありながら春草を師のように思い続け、尊敬していたという大観が、晩年に至るまで、自らが日本画の巨匠と称されるたびに「春草君が生きていたら俺なんかよりずっと巧い」と口にしていたというエピソードが残っているくらい、いかに春草が天才的な才能を持っていたかがうかがわれます。手元に美術年鑑という日本の画壇で活躍した画家を集大成した分厚い本があります。日本画のページを見ますと大観は昭和時代のトップページに、春草も明治時代のトップページに出ておりますが、春草は明治の中でも最初の位置に出ており最も高い評価を得ていることがわかります。この二人がいまも日本画に大きな影響力をもっていることがお分かりいただけると思います。
これから長野方面に行かれる機会があります方は日本学園の大先輩である天才の日本画家、菱田春草の展覧会をぜひご覧いただければと思います。
菱田春草の詳しい展覧会の内容については下記をご覧ください。
●「没後100年菱田春草展」7月2日~7月31日まで開催
詳しくは長野の水野美術館まで http://w2.avis.ne.jp/~nihonga/index.html
●その後、長野県信濃美術館でも「没後100年菱田春草展─新たなる日本画への挑戦」開催
青年時代の菱田春草
代表作のひとつ「黒き猫」 |
美術年鑑より(菱田春草)
美術年鑑より(横山大観)
広報部会 S44卒 中村
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