2011年4月25日月曜日

スペシャルサイト「我ら日校健児」第3回<前編>配信!

激動の時代を乗り越えてきた日本学園OBの自伝・インタビューを掲載するスペシャルサイト「我ら日校健児」第3回を配信いたします。物語はいよいよ海軍へ。堤氏は第2回配信時と同様、往時の青春時代を在りのままに伝えたい、という願いを込めて加筆・推敲を行ってくださいました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。海軍での物語は堤氏の自伝であると同時に、戦争を知らない戦後世代の同窓生、在校生諸君にとっても貴重な時代の証言に他なりません。今回は、この貴重で膨大な証言を第3回<前編>・<後編>の2回に分けて配信いたします。また、広報部会では堤氏在校中の校歌である「旧制日本中学校校歌」のYouTube版を制作いたしました。ぜひご覧ください。

梅窓会 広報部会


海軍時代                   

堤  健 二(昭和19年 日本中学校卒)

第二集では日本中学入学に始まり、海軍飛行予科練習生として入隊に到る私の学生生活の一端を紹介しました。人間教育での出発は先ず「大日本人たれ!」と言う人格教育に始まり、恩師の方々の優れた教育理念に燃えた指導、生涯続いた友情に満ちた友人達との交流、予備校での先取り教育と、更には切迫する国際社会環境のなかでの自己思想の確立が如何に成されていったか、読書等々含め日本中学でのユニークな教育のもと少年から青年へ向かっての人格形成の模様を紹介させて貰いました。かくて私の気力、知力そして体力も自分なりには素晴らしい成長を遂げることができたと思います。その精華は、青年の決意に繋がり、近づく近代戦が制空権で決せられるのであれば、「今こそ学舎を出てその一点に集中して己を鍛錬し、生死を懸けてでも国が直面する決戦の場で勝ち抜いてみせるのだ」と。それは最先端航空技術の戦いであり、己の知力・技術力・生命力の総力をぶつけた闘いとなると自覚していた。

品川駅を発車して海軍飛行予科練習生入隊第一歩は三重航空隊で始まった。それは予想を上回わり、まるで忍者の修練を思わせる機敏さと厳しさで一般学、課業実務、体育実務と遠慮会釈無しの叩き込まれ方で進められた。例えば分隊士による一般学『艦船運用』の講義が終わった途端に、「よし!開け!」の分隊士号令一下、さっと隊伍と歩調を整え、『ばっ、ばっ、ばっ、...』と韋駄天走りで次の講義に駆け付け、着座するときは呼吸一つ乱す者はいないといった調子の毎日です。平常心と平常態の錬磨と言ったところです。かくて海軍軍人としての基礎学習・修練を終える頃には、一応外見上は立派な面魂と自信に満ちた軍人としての出発となるわけです。

三重空より転属して土浦航空隊で予科を終了。鉄の魂と基礎学習そして搭乗員として耐え抜く体力が具わったところで、いよいよ飛行練習生実務につくことになったのですが、なんとその「厳しさは海軍きってと有名」な水上機偵察基地の鹿島空だと言うのです。厳しかろうが何であれ寧ろ本望だと腹を決めた六ヶ月の飛行訓練を経ると、厳しい訓練に腹も据わって、更に呉空での午前中は艦カタパルト発着艦訓練、午後はドイツ語学習・暗号受発信解読訓練を経ること三ヶ月、纏めは佐世保通信隊に於けるドイツ語暗号信号受発信解読実務三ヶ月で終了、そしていよいよ南方行きかと腹を決める頃、なんと案に相違して鹿島空偵察・情報連絡任務と言うことで再度鹿島空に着任した。

任務は偵察写真班所属で隔日鹿島灘・東京湾の主としては敵潜水艦、スパイ船など海上状況の偵察通信連絡と写真撮影現像、そして帰隊後の電送写真現像であった。そしてこの間、戦局が益々悪化するに従い、本土決戦準備と言うことで水上機部隊の主力は、偵察任務用の最低数を除く大部分が、当霞ヶ浦周辺では霞ヶ浦・北浦仮設格納庫退避処理となり、飛行場発着デッキは「ガラーン」と静寂まりかえり、更に敗戦色濃厚となった昭和二〇年三月に入ると偵察任務は解かれ、新たに霞ヶ浦空での飛行学生初級同乗飛行任務となり、そして終に二〇年八月十五日終戦を迎えることになったのです。

詔勅の後も、尚一週間ほどは若い士官達は戦争継続を叫び隊内を抜刀巡回して不幸な死者、負傷者が出る騒ぎが続いたが、やがてはこれも鎮圧され、将兵の帰郷整理もその頃には終了して隊内はがらーんとした静けさが戻った。貧乏籤を引いたが私は飛行機解体処理・設備・備品など引渡整理など米第八軍による非軍事化処理を済まし、さて今後はどうするかなど考えたが、一階級特進しての残留軍人として待機の話も、本来職業軍人を選ぶ意志はない私なので断り、結局ひと先ずは岡谷に疎開中の両親の下に無事な顔を見せたうえでの事と、霞ヶ浦航空隊を米軍第八軍接収隊将兵数名に見送られて帰郷の途についたのは十二月五日のことでした。思いは複雑で様々でした。犠牲者のみ多い、しかも総てを失った戦争が終わり、でも私は今生き残っている。三重空を振り出しに霞か浦空まで七回に及ぶ転属を経験し、その間様々の戦友と出逢い共に修練を重ねながらも別れを重ねてきて、今彼等の概ねは恐らく戦死し消息を断ってしまったのだ。気の重いことである。彼等の魂が今一体何処に彷徨い、何を考えているのであろう?そしてこれからの私は?などなど考えながらやがて岡谷に向かったのです。

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