2015年1月17日土曜日

実はもう一人、日本中学校関係者が
東宮御学問所の御用掛として活躍されていました。

●1月3日に紹介した「講談社の絵本 明治・大正 偉人絵話」で杉浦重剛先生が東宮御学問所において皇太子裕仁親王(昭和天皇)に倫理を御進講している絵を交えて紹介しましたが、実はもう一人日本学園関係者が東宮御学問所で教師をされていたのです。その名はフランス語に堪能な佐分利貞夫氏。

●大正3皇太子裕仁親王(昭和天皇)の帝王学の教育のために創設された東宮御学問所について詳しく書かれている「天皇の学校」(大竹秀一著 筑摩書房発行)によりますと、「土屋に続いて大正7年5月二番手として登場した佐分利貞夫は・・・・(途中略)・・・・子供のころ東京に移って、杉浦重剛が校長をしていた日本中学に学び、一校、東大仏法に進んでいる。」とあります。佐分利貞夫のフランス語について裕仁親王の学友の一人は「発音の非常にきれいな先生だった」と述懐しています。

日本中学関係者の一人は校祖杉浦重剛先生で「倫理」を担当、そしてもう一人は教え子の日本中学卒業生の佐分利貞夫氏は「フランス語」を東宮御学問所御用掛として講義されていたということになります。


佐分利貞男18791929(明治12‐昭和4)
明治・大正・昭和期の外交官。旧制日本中学校卒業(現日本学園)。1905年東京帝国大学法律学科を卒業。同年外交官試験に1番で合格。吉田茂(同様に日本中学校)とは一期上の外務官僚。大正7年から東宮御学問所御用掛、通商局長,条約局長を歴任。1921年大使館参事官となり、ワシントン会議全権随員となる。1929年(昭和4年)外相幣原喜重郎の抜擢で中国公使。同年帰国、宿泊先の箱根「富士屋ホテル」で謎の死をとげた。なお名前の「貞男」は「貞夫」との表記もありマチマチである。梅窓会のOB名簿管理者の調査によると「貞男」となっているとのレポート。

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広報部会 44年卒 中村 隆 

佐分利貞男氏

 
   日本中学校に学んだ佐分利氏のことが書かれているページ

 
 
「天皇の学校」(大竹秀一著 筑摩書房発行)
 




1 件のコメント:

S37卒 青蛙 さんのコメント...

佐分利さんの御用掛。よく見つけましたね。
校祖杉浦重剛と一緒に元服部親愛梅窓会会長(S2卒)のご尊父服部広太郎が博物を教えていたそうです。南方熊楠とともに「博物」を「生物」に変えたそうですよ。
この縁で、ご子息服部親愛が日本中学に入ったということです。
(以上のことは服部会長から以前伺いました。)