2015年3月21日土曜日

私の武蔵野歩き「武蔵野市観光機構の主催の散策に参加」

38()午前920分~正午。武蔵野市観光機構(通称:むー観)主催の散策に参加しました。
参加者は45名。いくつかのグループに分かれ、それぞれガイドの人の説明を受けました。

 武蔵野市の現在の「都立武蔵野中央公園」およびその東側の都営住宅等の敷地を中心として昭和13(1938)中島飛行機製作所が開設され、陸軍の隼戦闘機および海軍零戦闘機などのエンジンを製造していました。そのため米軍のマリアナ諸島発の爆撃機B29の日本本土「最初の攻撃目標」は中島飛行機工場とされ、昭和19(1944)1124日に最初の爆撃がなされ、工場は続いて全部で9回の攻撃を受け、工場以外でも多くの犠牲者が出ました。当時5万人の従業者が昼夜を分け働いていたそうです。中島飛行機の工場敷地は東京ドーム12個分の広さ。1124日は「武蔵野市の平和の日」に定められています。(その後、工場跡地の東側に旧国鉄スワローズのホームグラウンドが建設されましたが、翌年神宮球場が米軍から返還されたり、武蔵野の球場がいろいろな理由から使いずらかったことなどから球場は一年で使用終了しました)

 昭和28年卒 米田利民

          
当時の国鉄武蔵境駅から工場へ資材を運ぶための引き込み線(単線、現在遊歩道になっている)のための橋はなくなっていたが、平成23年に都道・調布保谷線(今年2月24日に「新武蔵境通り」と命名)開通を機に建設された「ぎんなん橋」。(車道のための橋は「いちょう橋」、その下を玉川上水が流れる)【上記の橋の名前二つは橋ができた時、橋の名前の公募があり、小生が発案し、カミサンの名前で応募して、採用されたものです。小生はすでに別の名前ー「浄水橋」などーで応募していたので、カミサンの名前を使った次第】



工場敷地の大部分を提供した延命寺に展示されている250キロ爆弾の破片の一部(その後1㌧爆弾が使われた)


唯一当時の建物が残る、変電室のあった建物の一部(都営住宅の管理事務室として使われていた)。近く取り壊され、森林公園がこの近くに出来るそうです。
 
 
現在の武蔵野市の陸上競技場。当時中島飛行機の運動場で観覧席の下に地下壕が掘られていた。昭和19123日、米軍の2回目の空襲により爆撃され多くの犠牲者が出た。


 
遺跡でないが参考までに:JR三鷹駅北口(武蔵野市)にある 「世界連邦平和祈念像」(北村西望作)

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