坂の上の雲、ご覧になっていますか。
先日第2部が放映開始されました。
松山出身の正岡子規と秋山好古、真之兄弟3人の若者を中心に
激動の明治時代を壮大に描いた物語。
時代背景やストーリーの余りのスケールの大きさに正直圧倒されます。
しかし、ここに母校の先人たちが深く関わっていたとしたら・・・
遥か遠いと思った時代からちょっと親近感が湧いてきませんか。
今回はその先人たちをご紹介いたします。
昨年第1部の放映では主人公の二人正岡子規と秋山真之が、大志を
抱きて故郷松山から上京。共立学校で学び、明治17年揃って念願の
大学予備門(のちの一高、現在の東大教養学部)へ入学を果たします。
そして、まさにこのときの大学予備門の校長が、
我らが校祖杉浦重剛先生でありました。
明治9年英国留学の頃の杉浦先生(22歳)
さらにこのときの入学者には、後に子規と親友となる夏目漱石もおりまして。
なんと豪華な面々・・・
若き杉浦校長は、彼らとどんな言葉を交わしていたのでしょうか。
ドラマの映像とシンクロして、そうした場面を想像するとロマンに駆られます。
(この翌年明治18年に母校の前身東京英語学校が創立されました。
正岡子規はその後帝国大学に進学するも明治25年中退し、新聞「日本」に入社。
記者兼俳句、短歌担当となり文芸活動を展開していきます。
ドラマでは病を認識した子規(香川照之)が陸羯南(佐野史郎)に
固い決意で、入社を請うシーンが印象的でした。
そしてこの新聞「日本」にも、杉浦先生が創刊から尽力されていたのであります。
さらに新聞「日本」と子規、母校先人たちの深い関わりは続きます。
明治34年には、大先輩である鈴木虎雄氏が入社します。
このお方は、明治24年東京英語学校を卒業され、東京府尋常中学、一高、
東大漢文科を卒業。正岡子規の根岸短歌会にも学生のころから参加し、中国文学者として長年の功績から昭和36年文化勲章を受章されています。
新聞「日本」では病に倒れた子規に代わって短歌の選者を勤めたとあります。
ちなみに奥様は主筆陸羯南の次女鶴代。彼の学才と人柄が羯南に高く
評価されていたとのことです。
そしてもうお一人。さきの『日校健児に流れる文武両道の遺伝子。(その2)』
でも登場した長谷川如是閑氏。
学生野球の偉大なる発案をされた大阪朝日新聞時代より以前、
新聞「日本」の記者として活躍されていました。
如是閑氏は明治22年に東京英語学校入学、
26年東京法学院(現中央大学)に進み、卒業後、新聞「日本」へ。
明治34年に入った鈴木虎雄氏の1年後の入社とあります。
ドラマ第2部もいよいよクライマックスとなりますね。
そしてこの後も、坂の上の雲、と大きく関わる母校先人が現れます。
そしてこの後も、坂の上の雲、と大きく関わる母校先人が現れます。
2 件のコメント:
杉浦先生の教えが日本の政治・経済・文化・芸術まで幅広く大きく影響していたことがわかりますねえ。
素晴らしい記事をありがとうございました。
記事は、その2と続くのですねえ。
期待してます。
その2作成予定です。
ドラマの展開と合いそうです。ありがとうございました。
あとその後の調べで、杉浦先生と夏目漱石に良い関係があるのが分かりました。
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