2013年7月24日水曜日

Baisoukai Today スペシャル・インタビュー④

OB&在校生(梅窓会・準会員)の“今”を伝える「Baisoukai Todayスペシャル・インタビュー」をお届けします。第4回は、梅窓会ブログ・訪問者総数100,000人を記念するロングインタビューを実施。プロ仕様シェルフの世界ブランド「エレクター」の日本における開発・販売を推進するエレクター株式会社・相談役・松本勝馬さん(S36年卒)にお話を伺いました。

日本学園に学んだ。そのプライドをパワーに。(上)

松本勝馬(S36年・日本学園高等学校卒)
昭和18年1月17日生まれ。狛江市に育つ。中央大学 経済学部卒。
エレクター株式会社・専務取締役を経て2013年相談役に就任。

在学中はいくつもの部活を掛け持ちされていたそうですね。
僕は中学校から日本学園に入学しましてね、中学時代は「ブラスバンド部」(現在の吹奏楽部)、「社会科研究部」、「天文部」、高等学校に進級してからは、「社会科研究部」と「コーラス部」で活動しました。特にコーラス部の活動には力を入れていましてね、高校1年生のとき、コーラス部の先輩たちが演じたイタリアオペラの「ラ・ボエーム」にスタッフとして参加して、僕もやってみたい、と思ったのが入部のきっかけです。みんなでひとつの舞台を作り上げていく楽しさを知って夢中になりましたね。当時のコーラス部は、コーラスの練習に来たり来なかったり・・・そんな幽霊部員みたいな生徒も含め、いろんな奴が参加していました。ですからOB会で集まると「アレ、おまえもいたのか?」という同窓生と再会することもありますよ(笑)。

日本学園中学校1年生の遠足。右端バスガイドさんの左・メガネの少年の左下で
何かをくわえている少年が松本さん。担任は声楽家の友竹正則氏。

コーラス部での思い出を聞かせてください。
文化祭で上演した『マルタ』(正式には『マルタまたはリッチモンドの市場』)が思い出深いですね。フリードリッヒ・フォン・フロトー作曲の4幕からなるドイツオペラで、女官のいたずら心から起きる騒動と恋の顛末を描く、コミカルでロマンティックな作品です。日本ではアイルランド民謡「夏の名残りのバラ」をテーマ曲としていることでも有名です。この『マルタ』を文化祭の公演規模に合わせて再構成する必要がありました。そこで僕が脚本・美術舞台装置を担当して、東京芸大を目指していた同期の金沢君が作曲を担当、主役のライオネルを演じた河野君が演出を担当しました。見せ場見せ場の『アリア』5~6曲以外は、すべて金沢君がオリジナルを作曲したんですよ。僕は役者としてバリトンも担当しましてね、準備に一年ぐらいかけたかなぁ・・・懐かしいですね・・・

『マルタ』を演じた仲間たちと在りし日の一号館・外階段で撮影。
左から5番目のスカーフを巻いた青年が松本さん。

『マルタ』を演じるためには女優さんが不可欠ですが?・・・
そうなんです、男子校だから女子がいない(笑)!そこで中等部までブラスバンド部でトランペットをやっていて、国立音楽大附属高校に転校した友人に頼んで、同校の女子生徒に参加してもらいましてね、それから鴎友学園女子高校の生徒にも参加してもらいました。衣装も六本木の俳優座へみんなで借りにいってね、女子は自分たちで手製の衣装を作って演じていました。すごいでしょ(笑)。小生の衣装は母の手作りで、なんと、この5月に転居した折、台本や楽譜と共に53年ぶりに出て来たんですよ。

休日に私服で登校。一号館北側エントランスの階段で撮影。
当時からオシャレな青年だった。

松本さんが学んでいた頃の日本学園はどんな学校でしたか?
兄が日本学園に通っていたものですから、それが縁で入学したんです。僕の二級上には前校長の谷川さんや常務理事の小川さんを始め、現在の母校を支えている先輩方もおられました。進学実績では毎年、国公立大学、早稲田大学、慶応義塾大学や現在MARCHと呼ばれるクラスの大学にも、それぞれ数名から数十名が合格していました。群を抜いた進学校ではなかったけれど、世田谷周辺では歴史ある名門校として認識されていたと思います。先生方も優秀かつ個性派ぞろいでした。中学時代の担任は、その後テレビ番組でも活躍された声楽家の友竹正則先生です。体育科の講師にはメルボルンオリンピックの鉄棒で金メダルを獲得した小野喬先生がいらっしゃいました。おさな心の中に「俺たちはすごい先生方から教わっているんだ!」という誇らしい気持ちがありましたね。高校に進級してからは、とにかく自由な雰囲気で、青春時代をのびのびと謳歌できる学校でした。「受験勉強しろ!」とうるさく言う先生もいなかった。もし、うるさく言われていたら、進学実績はもっと良くなっていたかもしれませんね(笑)。

一号館南側ヒマラヤ杉の下で。
右は同期の浦本建十郎さん。浦本さんは軟式テニス部OB。
ラテンムード歌謡グループ「東京モナルダ」のメンバーとして活躍。
現在は中野坂上で居酒屋『食いものや駄々っ子』のオーナーをされています。
「東京モナルダ」のヒット曲『神戸で別れて』をYouTubeでお聞きいただけます。

日本学園らしい自由の気風の中で青春を謳歌されたのですね。
はい。当時の制服は黒い詰襟でしたが、校内で私服を着用する時には、着用する理由を書いて学校に届け出なければならなかった。しかし僕は“黒い詰襟にグレーのフラノのズボン”という当時の大学生の着こなしに憧れていましてね、なんだかんだと適当な理由をつけては、それを真似した格好で登校していました。僕は高校時代に生徒会長も務めたのですが、そんな規則違反の常習者が生徒会長なんですから、良くも悪くも、おおらかな気風があったんですね。そんなことで僕も中学校を卒業する時は「優等賞」をいただきましたが、高等学校へ進学してからは、部活に夢中で、まったく勉強しませんでした(笑)。当時は高等学校から入学してきた優秀な生徒も多く、さらに他校を退学になって日本学園に編入してきた猛者なんかもいて、いろんな奴が個性を発揮していた時代でしたね。

上段左が高校1年生の松本さん。右・田中さん(一年先輩)、左下・河野さん(同期)、
右下・間瀬さん(同期)。日本学園の生徒は今も昔もオシャレでセンスがある。

今、日本学園に学ぶ生徒たちに伝えたいことは?
僕は日本学園で本当に心豊かな6年間を過ごしました。その豊かさの中には、すばらしい友人や先生方との出会いもあったし、社会の第一線で活躍するOBや一流の見識を備えた方の薫陶に触れる機会もありました。プロ野球解説の草分けである小西得郎氏、映画監督の吉村公三郎氏、陸軍大将だった荒木貞夫氏、吉田茂の後継と言われながら急逝した緒方竹虎氏。河野洋平氏・太郎氏の父であり、祖父であった河野一郎氏などの講演会もあって、立派な先輩方がいる日本学園を誇りに感じたものです。この恵まれた環境は、現在の日本学園も変わらないと思います。在校生諸君は、ぜひ日本学園の歴史やOBの偉業を学んで欲しいですね。知れば知るほど、日本学園の生徒であることを誇りに思うはずです。

次回『日本学園に学んだ。そのプライドをパワーに。』(下)に続く。

梅窓会 広報部会

1 件のコメント:

日学OB白ソックス さんのコメント...

まだアイビールックが若者ファッションの標準になる前の時代に
こんなオシャレで文化豊かな若者達がいた日本学園の時代があったとは驚きです。
いつまでもこの日本学園の文化を踏襲してもらいたいものです。